昨日はヒトカラへ。
家族がいると泣けない。
誰もいない家でも声を上げて泣くと外に聞こえるから泣けない。
車を運転しながらなら大声で泣けるけど、事故りそう。
もう、どうやって泣くのかを毎日考えるの疲れた。
亡くした存在たちは小さくはなかった。
でも、毎日の生活があって、今後のことも考えなきゃいけなくて、そんで、誰も寄り添って私の話を聞いてくれるわけでないことにも気づいた。
そんな中、一人でどうやって泣けと?
で、ヒトカラ。
泣けそうな歌を最初はチョイスしたけどうまく声が出ず、結局いつもの熱唱系に。
外に駄々洩れなのは知ってるけど、ここはそういう場。
下手な歌でも気にせず叫ぶ。
さすがに1時間半で力尽きた。
でも、スッキリ感はすごい。
さすがストレス発散の代表格。
泣きたいときは泣くのが大事。
さんざん言われてるし、後からぶり返すぞ、とか言われてるし、同じ状況の人たちが体調崩すほど落ち込んでる話もよく聞くけども。
可愛いペットたちや、大好きだった祖父母を見送ってきた。
記憶にないけど、実父も子供のころ見送った。
別れの悲しさは、知ってる。
最愛の猫と犬を一気に失って、もっと人生に絶望するかと思ってた。
最初は人目もはばからず大声で泣いて文字通り吠えた。
でも、色んな手続きや家の片づけ、毎日の仕事をしながら自分の生活をこの2週間で取り戻すなかで泣き方が分からなくなってしまった。
悲しみが足りないのか、と悩んだこともある。
感情を押し殺してるのでは?無理をしてるのでは?と思ったり。
あとで煮詰まってドロドロになった感情がぶり返して爆発するのを恐れてる。
でも、これまでもそうだった。
ペットロス、なんて言葉が一般になったから、飼い主の4人に3人はロスになるとかいう話が流れてるから、そうならなきゃいけないような気がしてたけど、
私は、これまで亡くなった存在を日常の中に溶かしてきたんだ。
亡くなった祖父母のお墓に行くと寂しさに胸が詰まる。
記憶にない父でも恋しい。
見送ったペットたちは、今でも私たち家族の傍についてると信じてる。
泣き暮らすことはしなかった。
一生懸命、日常を取り戻して、その中に愛する人、動物たちを感じてた。
会えないだけで、そばにいると信じてる。
49日とか関係ない。
何年たっても、私のそばにいると信じることで、私は前を向いてきた。
ヒトカラ行って、マイクを握りしめた時、思い出したのが自分が一番輝いていた時のこと。
人前に立ってマイクで話す仕事をしていたのを思い出した。
さすがにもうできないけど、あの頃の自分が今の自分を見たらどう思うだろう。
長い介護疲れで身嗜みや体型維持も気にせずオバサン化が酷い自分。
悲しみに浸る時期だと見て見ぬふりしてたけど、本当は気にしてたんだよね。
帰宅後、急いで筋トレと白髪染めをして服も着替えた。
崩れ切った色々の立て直しは容易でないけど、食い止めることはせねばならぬ。
亡くなった犬猫たちが、私の見栄えを気にするとは思わない。
でも彼ら自身も亡くなるまで自分で毛づくろいをし、犬は毎月トリミングもしてたんだから、
私だってきれいにしておこう。
また思い出して泣く日は来るだろう。
ずっとジクジクと痛む胸と寂しさは抱えるのだろう。
でも、その痛みと孤独と彼らを連れて、私は生きていくんだ。
そういう悼み方だってあるはずなんだよ。