どこにも必要とされていなくて、
行き場がなくて、
そんなこと分かっていたのに、
改めて第三者の前で高らかにそう宣言されると、
どうしたらいいか分からなくなる。
郵便局が土曜日に配達しなくなって、どれくらいたつのかな…。
月曜日の配達物の多さに、郵便局は大変とか聞いた事ある。
そのあおりで、今年の秋から値上げ?
値上げして、郵便物がスムーズに届くのなら、文句なし。
なんとなく、市内でも書類が届くのが遅れているような…。
国はこのような意見を尊重してほしいんだけどね。
お偉い議員さん達は、聞いていないのか聞かないのかわからないけれど知らん顔だよね。
映画を観に行った。想像以上に良くて集中して観ていたのが原因なのか、終わったら頭痛していた。
嫌なことが待ちかまえていたり、嫌なことが終わったあとに頭痛にはよく罹っていて、そういうタイプの頭痛も多かった。
自分の好きなことや集中したいことでも限度がこえたら頭痛するってのはあまりない。
嫌なことで誘発される頭痛に体が慣れすぎて、いつもと違う何かに集中するというだけで体が頭痛を起こすように誤作動しているのかな?そうだったら、やっぱり嫌なことは減らしたいなー楽しい事は不快感なく楽しみたいから。
楽しい事のほうが嫌なことより少ない気がする。だからこそ楽しいことは200%楽しみたいんだよねー
体が嫌な事寄りのシステムになってしまっているのかもしれない。避けては通れない事もあるけど、もっと気合い入れなくとも単純作業をこなすみたいにこなしていけるようにしたい。純粋に単純作業なら楽だったんだけど、あちこちから飛んでくる会話に反応しながらの作業だと自然と体に力が入ってしまったのかなー?その会話も爆弾みたいなのもちょいちょいあって、まともに受けないように、自分は爆弾で返さないようにとかテクニックが必要すぎて…
とりあえずまたあの時の場所みたいなところに来たときは、服を着た空気になって時間が過ぎるのを待つしかない。
そして、自分だけじゃなく他の人も服を着た空気なんだ!と思いこむ。本当の肉体に服を着せるのは楽しいときだけ
ルールがなぁなぁだったり緩かったり、ちゃんと明記されてなかったり…そういうのに振り回されている。
「それでもみんなちゃんとやっている」というから、どうにか調べたり聞いたりして、ちゃんとやっているように見せているだけなんだよね。
どうでもいいことには決め事があって、ちゃんと明確にして欲しいことは曖昧。
そんなのばっかりのような気がするよね。
昨日もそんな事に縛られて、バタバタしていた気がする。そして明日もか…明後日が一番キツイなぁ…自分ルールがすごい人がいてその人の心を読み取ってあげなきゃならないからね。読み取ってあげるからQRコードでもつけといて欲しいくらい。
だけど、あれってなかなか読み取れないときがあるよね。光の加減とかよくわからないけれど。その人のコードだけ、いざとなったら読み取れなくなるんだろうな。
様々な手段があっても、結局わかり合えないときはわかり合えないもんだよね。きっと明後日も「読み取り不可」って出るでしょう。おそらく私自身も受け入れられないし受け入れたくないんだよね。
なるべく遠ざかり、読み取ってくれる他の誰かを陰ながらサポートする感じで頑張ろう~もうそれしか無理だな。
絡まれたほうは、この単語や話題を出さないようにしたりオブラートに包んだり工夫してるのに、自分だけは好き勝手言い放題…
そういう人ってやっぱりどこにもいるんだけど、自分が居心地が良いと思っている場所には入ってきて欲しくないんだよなー
俗に言う、合わない人って物事の解釈がちょっと合わないんだよね。絡まれるまでは自分とは違う世界観の人だと思えていたけど、絡まれてからは、それも自分勝手な主張に見えちゃってシンドイ。
ソレとコレはしたくないのに、アレはやるの?みたいに矛盾だらけに感じて疲れる。ただ、絡まれていなければ、そーいう人もいるんだねーって感じで流せたけどね。だからあまり会いたくはないんだよなー
好き勝手主張したいなら、他人の好き勝手さも認めていかないといけないのかなと。認めるっていうのは理解する、主張を飲み込んであげるまでしなくてよくて、何か言ってますな〜あの人〜的な軽い認めるという段階。それくらいでいいのに、わざわざ違う違うそうじゃない〜♪って歌いだす。いやいや、こちらからしたらそちらが違う違うそうじゃない〜♪なんだけど。違う、そうじゃないを歌い出すことで、結局は他人に矛盾を突かれて自分が痛い目に遭うのにと。
合わない人とは会いたくない。でも私の合わない人って、なんだか向こうから私に会いに来る人ばかり。とりあえずお祓い的な意味も込めてアクリョータイサンと言っとくか。
違う、そうじゃないをそのものを歌うのは好きです。知らない人もいるのかな。違う違う違う違う〜そうじゃない〜今度カラオケで歌うか〜何も言わせない〜♪
人生においてイメージ出来ないことがどれほど不利なことかを本当の意味で世間はよくわかっていないと思う。
私はあらゆるイメージに不都合がある人間だ。未来も過去もイメージできないし、空想も夢も描けない。自分が行動しているところをイメージ出来ないし、その行動をしたら未来の自分がどう感じるかをイメージできない。危機感を感じることが出来ず、全てが行き当たりばったりで何の計画も立たない。
他人の気持ちを考えることはできるが、他人の視点にはなれない。共感性がなく、他人に共鳴しない。他人の痛みに共感して、自分も痛みを感じるということがない。他人が痛みを感じているということは認識している。
どこに居ても、人と繋がるという感覚が持てない。
辛い。
平成生まれ
ゆとり世代
らしいです。よ。私たちの世代。
モー娘。全盛期のSPEEDに憧れて、アユと安室ちゃん派に別れて、
ジャニーズでいえば、スマスマ、学校へ行こう!、うたばん?へいへいへい?
もはや懐かしすぎて、、またみたいよね。
ケータイもパカパカとかスライドとか使ってて
うちは親が高校生になったら携帯買ってやるって
言われてたからそれまでお母さんの携帯かりて
メールしたりして怒られて、、
高校卒業したら就職したから新たに携帯買って
当日遠距離始めたから当時の彼氏とおそろいのWILLCOM
買って2代持ちして、長電話からの寝落ちして
翌月の請求すんごいことになって
けど楽しかった。楽しかったよ、平成さん。
気がつけば来年、としおんな。
ドラマを見ることができなくなった。
複数の気になるドラマの冒頭5分で挫折。
面白そうなのに。
人のこころのきび、声量 すべてがしんどいのかもしれない。
それなのに、ここで自分の感情を書いている矛盾。
聞いてくれて(読んでくれて)ありがとう。
ちょっと休憩。
明日から仕事だ。
私は過去に生きている。
亡くなった愛犬 たちや 愛猫の写真に話しかけ、
亡き父や亡き祖父母の形見を愛用し、亡くなった祖母が作ってくれた 食事が恋しく思う。
会いたい 存在はみんな亡くなっていて、もしかしたらもう生まれ変わってるかもしれないけど、彼らは私の中にまだ一緒に生きてると思っている。
そういったあたたかな 交流だけでなく、恥ずかしい記憶忘れない記憶も同様。
不意に思い出して、あ”ぁ”と言葉にならない声をあげたくなるような記憶にうなされることが日々多い。
あまりに生々しい 辛い記憶 嫌な思い出に、これいつのことだっけ と考えると、20やそこらの頃好きだった男に言われた 些細で残酷な一言だったりして愕然とする。
私 今 ぶっちぎりで40代 ね。
今日ラジオで大学生の失恋話にあと10年も したら名前も思い出せないからって言うけど、私まだ覚えてんの。
各々 歴代好きだった男の名前。
顔は多分 思い出補正されてんだろうから、すれ違ってもわからないだろうけどw
未練は、もちろんない。
恨んではないけど、思い出が引き起こす痛みや恥は年々ひどくなっていくような気さえする。
それ以上に素晴らしい経験 楽しい 幸せな経験もいっぱいしてきたはずなのに、思い出すのはそっちなの。
恋愛とか新しい人間関係自体もないから、思い浮かべるのが古い人間関係 ばっかりになるのかな。
恋をしてる時は恋愛関係の嫌な思い出は全く思い出さないのだから。
一方で 未来のことになると次の定休日何しようかなと思うのが 関の山。
毎日忙しくて、飛んできた玉を打ち返すのが精一杯だから、明日のことすらGoogle カレンダー見ないとわかんない。
なんなら 今夜誰と会議するのかも 直前に慌てて確認するぐらい。
疲れた。
人と話すのに疲れたけど、対面で人と 仕事 全く関係のない話がしたい。
でも新しい しがらみができるのも嫌。
だから私は過去と対話するのかもしれない。
思った以上に疲れてる自分がいる。
もう7年程も前になるか。
某サイトでブログを毎日書いていた。
読むだけでは物足りなくなり、書いてみるかと始めたら止まらない、止まらない 笑
どんな事もやってみて分かる事がある。
その頃分かったのは、書くのはすごく面白い、いいねが付くと嬉しい、付かないと不安になる、好き勝手な書き方が自分には合っているが、そういう人は少数、書けば書くほど地面の葉っぱをどけるとワラワラと出て来るわらじ虫のように書きたい事が出て来る、好みは人それぞれである、創作がまた楽しくて面白くてそして恐らくはあまり万人受けはしない、と言ったところか。
その頃読んでいたある方のブログを、自分はとうにそこで書くのをやめた今も時々覗く。
ものすごく不思議な事に、時々読むその時の自分の心の中をこの方は見ている?知っているの?と思うような内容の文章に出会う。
ものすごく不思議だ。
そして何だか癒される。
お会いした事は無いしこれからも無いだろうが、心の中でお礼を伝えている。
ひょんな事で見知らぬ誰かを救う事ってある。