いろいろな人を揶揄する言葉がある。
ネット上の中だけでは、割とそういう簡単に人をカテゴリー化して下に見る、いわゆる差別用語と言われてしまいそうな言葉が散見される。
不思議なのは、それを使って誰かを揶揄する人間がリアルにはいないということだ。ネット上の匿名の世界では言っていいと思えるのだろう。昔はリアルでつかっていた人間がごまんといたわけだし、平和な世界になったと言えばなった気がした。
ネット上のチャット欄では、こんな言葉を使う奴なんてと言葉の使用する人を攻撃する見方か、その言葉の意味に共感して誰かを攻撃する見方のどちらかに分かれる。この言葉で実際に傷ついている人たちがコメントをし、その人たちを実際に攻撃できると思う人たちが攻撃している。不毛だなあと思う。その言葉一言では語れないほどの人生が、確かにその人一人一人には存在する。言葉を使う人たちは、チャット欄を見ている限り、リアルで誰かがそうで、その人に対する個人的情念のようなものを全部その言葉に乗せて、何とか逃がそうとしているように見えた。その一人一人にも、やりきれない思いを抱くことになったリアルの誰かの影が見えるのだろう。個人を排した世界で、個人である時体験した辛さを、個人ではないふりをして吐き出すような構造が見える。一方でその人も、ネットの世界では個人として尊重されることは決してない。諦めきれなくなる。また個人でないふりをして、つらさを吐き出す。本当にそういう構造がただ連鎖し続けているなら、哀しいものだ。
人生なんて往々にして退屈だ。理不尽だ。メジャーリーガーのような勝ち試合がみんなできるわけじゃない(シンプルにうらやましいしねたましい)。
人生を一変させる魔法などなく、この地を足で踏みしめて、それぞれが様々な状況の道を歩む。茨だったり沼だったり、舗装された高速道路だったり、と思いきや茂みに道を自分で作って行ったり。その道の模様も様々だ。持っている装備品、脚の状態だって違う。それが昨日と今日とでも違う。時々その人が選んでもないのに洞穴に入ってしまって立ち往生する人もいる。誰かと交錯する。人の道がうらやましく見えるが、その人の足にとってはとても歩きづらかったりする。
それでも日が落ちてのぼるたび、確かに一歩を踏みしめる。
少しスピリチュアル的で正直嫌いだが、私たちは本当に、私たち自身と向き合うことで初めて世界と向き合えるようなところがあるし、そこから逃げると途端に、目に見えない世界はよりどころとなって迫ってくるようだ。つらい現実の個を忘れ、大衆の目に見えない波に身をゆだね、個で感じていた情念を投げ込んで誰かの情念を湧きたてる。
創作ではよく人の情念が化け物となっているが、それがインターネットでは入り乱れている。情念の濁流が、0か1の数値化された世界で確かに流れている。誰がこれを祓うのだろうと興味がある。
私たちの生活は、あくまで肉体のある目の前の目に見えるものや手に触れられるもの、五感で味わえるものが土台になっている。それを大切にしていたいなと、このバーチャルな世界で投げかけて誰かの目に留まることを祈った。
長く言葉を使ったが、簡単に言えば、ネットばっかやってないで、リアルの世界と向き合おうと自戒する経験となった。