2025.08.10Sun
非表示 15:22

アナログで手書きの日記を書くために百均でノートを買ってきた。
きっかけはなんてことないことで、ここ最近流し見してたテレビで日記の話をいくつか見かけたのね。

ブログでもない。ここに書くでもない。プライベートなもの。アナログで手書き。いずれ忘れ去られてしまうなんてことない日常も、忘れられないような出来事も赤裸々に。
なんかいいな、って思った。

もともとアプリの日記も続けられたことがない三日坊主な自分に続けられるのか?という不安はありつつ(笑)、意外とアナログな手書きの方が続くかも?という期待もある。
というのも、ここ最近手書きでメモしていたときに、手書きで文字を書くってデジタルで言葉を紡ぐより思考が整理しやすいかもってことに気づいたので、そんな期待も込めつつ、続くことを願って始めてみることにした。

まずは習慣化をめざして!気負わずいこう。


非表示 13:55

久しぶりに雨降ってる
エアコンの室外機に日除けのカバーをかけていて、そこに雨が当たってぱたぱたぱたぱた音がする
寝室のとこのなので夜だと寝ていて音が気になるけど、日中だとなんか楽しい


非表示 12:08

ドラマ版 舟を編む を見ている。
三浦しをん原作。
確か映画にもなっていなかったっけ。なってた。
主演の、BUMPの、馬締さん役の人。野田洋次郎。いい俳優だなと思う。
どこかにいそうな顔で、他にはいなさそうな丁度良い声。この人ってこんな声だっけ。歌うとき。
空気感がいい。そう思う。

恋愛って何だろう。
ずっと我慢しているつもりで、頑張っているつもりで、何も頑張れていなくて、だからもっと我慢しなくちゃいけなくて、全部やらなきゃいけなくて、苦しい。
何を我慢しているのか、何が欲しかったのか、だんだん分からなくなる。
心の声を、微かな光を、かき集めないといけないと、思う。

大渡海はどんな舟になるのだろうか。


非表示 06:18

いろいろな人を揶揄する言葉がある。
ネット上の中だけでは、割とそういう簡単に人をカテゴリー化して下に見る、いわゆる差別用語と言われてしまいそうな言葉が散見される。
不思議なのは、それを使って誰かを揶揄する人間がリアルにはいないということだ。ネット上の匿名の世界では言っていいと思えるのだろう。昔はリアルでつかっていた人間がごまんといたわけだし、平和な世界になったと言えばなった気がした。

ネット上のチャット欄では、こんな言葉を使う奴なんてと言葉の使用する人を攻撃する見方か、その言葉の意味に共感して誰かを攻撃する見方のどちらかに分かれる。この言葉で実際に傷ついている人たちがコメントをし、その人たちを実際に攻撃できると思う人たちが攻撃している。不毛だなあと思う。その言葉一言では語れないほどの人生が、確かにその人一人一人には存在する。言葉を使う人たちは、チャット欄を見ている限り、リアルで誰かがそうで、その人に対する個人的情念のようなものを全部その言葉に乗せて、何とか逃がそうとしているように見えた。その一人一人にも、やりきれない思いを抱くことになったリアルの誰かの影が見えるのだろう。個人を排した世界で、個人である時体験した辛さを、個人ではないふりをして吐き出すような構造が見える。一方でその人も、ネットの世界では個人として尊重されることは決してない。諦めきれなくなる。また個人でないふりをして、つらさを吐き出す。本当にそういう構造がただ連鎖し続けているなら、哀しいものだ。

人生なんて往々にして退屈だ。理不尽だ。メジャーリーガーのような勝ち試合がみんなできるわけじゃない(シンプルにうらやましいしねたましい)。
人生を一変させる魔法などなく、この地を足で踏みしめて、それぞれが様々な状況の道を歩む。茨だったり沼だったり、舗装された高速道路だったり、と思いきや茂みに道を自分で作って行ったり。その道の模様も様々だ。持っている装備品、脚の状態だって違う。それが昨日と今日とでも違う。時々その人が選んでもないのに洞穴に入ってしまって立ち往生する人もいる。誰かと交錯する。人の道がうらやましく見えるが、その人の足にとってはとても歩きづらかったりする。
それでも日が落ちてのぼるたび、確かに一歩を踏みしめる。

少しスピリチュアル的で正直嫌いだが、私たちは本当に、私たち自身と向き合うことで初めて世界と向き合えるようなところがあるし、そこから逃げると途端に、目に見えない世界はよりどころとなって迫ってくるようだ。つらい現実の個を忘れ、大衆の目に見えない波に身をゆだね、個で感じていた情念を投げ込んで誰かの情念を湧きたてる。
創作ではよく人の情念が化け物となっているが、それがインターネットでは入り乱れている。情念の濁流が、0か1の数値化された世界で確かに流れている。誰がこれを祓うのだろうと興味がある。

私たちの生活は、あくまで肉体のある目の前の目に見えるものや手に触れられるもの、五感で味わえるものが土台になっている。それを大切にしていたいなと、このバーチャルな世界で投げかけて誰かの目に留まることを祈った。

長く言葉を使ったが、簡単に言えば、ネットばっかやってないで、リアルの世界と向き合おうと自戒する経験となった。


非表示 06:17

みんなそれぞれあるのはわかりますが、返信が遅すぎると萎えるタイプですね。秒で返せと言っているわけじゃないですよ。
緊急のことなんて滅多にないですが、滅多にないからこそ連絡したときには早めにレスポンスくれたら嬉しいなとは思います。そういうのも相性かなと思っています。


非表示 05:49

時々、"席を譲ったけど、年寄り扱いされることに怒っている、怒られたみたいな出来事をネットで見ますが、これって、お年寄りや席を必要としている人に席を譲りましょうっていうのを啓蒙してるんだから、しょうがないですよね。
譲ってあげるほうが、自ら譲る方向ももちろんアリですが、譲って欲しい側も積極的に「譲ってください」と言ってもいい気がします。
譲ってください!なんて自ら言いづらいのはわかりますが、せっかく譲ったのに、年寄り扱いされた!とか怒られるのってやっぱり不快ですよね。
「譲って欲しい方は自ら声をかけましょう、声をかけられた側は事情がない限り応じましょう」の啓蒙もしたらいいと思う。

2025.08.09Sat
非表示 13:22

まあ、暑くなくなってから考えるか、やるかと思ってるけど、10月まで暑いのか⋯
今日は比較的暑くない(決して涼しくはない)のでちょっと外出。
ドトールくらいは行きたい


非表示 11:27

一昨日と昨日、楽しかったの。
あの人の空気感めっちゃいいなー。
ずっとこのまま会えたらいいな。
なにもないから心地よい。
ずっと好きだと思う。


非表示 06:16

母が亡くなって6年経った後に書いてた手記では、控えめに柔らかく、会わなくなったことで新しい自分になったとは書いていました。感謝もしている、毒親とはハッキリ言えないとか。
亡くなって会わなくなって気がついたことがある、母の価値観が自然に染み込んでいた自分に気がついたということも書いていましたが、母が亡くなって6年、そしてそれから3年後の今でも強く思っていることです。
いなくなって寂しいと単純に思えないことに複雑さを3年前は抱いていたようですが、今は寂しいというよりも自分の人生、考えがくっきりと浮かんできたことにホッとしているんですよね。
以前、ここで私はもうすぐ9歳になります。と書いたのですが、自分の純粋な価値観を獲得という意味では本当に9歳でそこは祝うべきなのかなと。
人が亡くなっているのに祝う?と思われてしまうし、他の家族や周りの人には言えませんが、亡くなったことに対する祝いではなく、あくまで、新しい自分の誕生としての祝いです。
誰かが亡くなる日もあれば、同じ日に誰かが生まれることもある。それと一緒です。私は私としてはまだ9歳なので未熟なのです。実際の年齢と追いつかないままかもしれませんが、キット今のほうが一番“自分"だと思います。

2025.08.08Fri
非表示 14:00

バリに行ったという友人を羨ましいと思ったのはバリという場所自体に憧れたからではない。ただ、その友人がバリに赴くことのできる時間と経済的なゆとりを持っている、その境遇が羨ましかったのだ。
​そういえば、ずいぶん昔に、合コンに行こうか行くまいか、といった話題で盛り上がっている人たちを見たときも同じような感情を抱いた。彼らが合コンに参加できるその自由な立場が羨ましかっただけで、合コンという場そのものに行きたいと思ったわけではない。仮に自分にその自由があったとしてもおそらく合コンには行かず別のことに時間を使っていたことだろう。
​合コンには一度も行ったことがない。話を聞く限り、ただただ疲れるだけの場所だろうと想像している。もちろん、今となっては合コンに行くような年齢でも立場でもないし周りにそういった話題を口にする人もいない。
​人生経験として一度くらいは行っておくべきだったのだろうか。いや、そもそも誘われた記憶もない。若い頃から、そういった一種の社交場に対する苦手意識が、オーラとなって全身から放たれていたのかもしれない。誘ってくれる友人が少なかったというのも大きいが。
​十数年が経ち、苦手なものは苦手なままだ。考え方も根っこの部分は変わらないまま生きている。ただ、苦手なことへの対処法だけは良い意味で変わったのではないかと思いたい。友人のバリでの楽しそうな様子を見て、ふとそんなことを考えたのだった。

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