自己主張はこっそりとするのが最近のブームですかね?
先頭に出ていても意味がないであれば後ろに並んで本音を大声で言ったほうがスッキリしますね。
朝のコーヒー、うまーい。哀と敗者と私しかいない気がするこの頃ですが、いつものようにマイペースでいきたいと思います。
正直、ちょっと前の雰囲気が好きでしたが、哀敗者の話はあまり面白いとも思いませんが不快でもないです。皆さんに布をかけられたりペンキを塗られたりはしてるみたいですが…自分の登校もどう思われているかわかりませんが。
私が嫌だなって思う人が登校しなくなったのは空気がよくなったなーピリピリ読心術が出来ることを撒き散らしてる変な人って言っておきましょうか。でも、その人が登校してきても、みんな布を被せてなかったんでしょうかね。私は自分にトンチンカンな槍が飛んできてからは、その人が登校したと思われたら布を被せて保健室登校みたいになってましたが、その人はしばらく登校していましたね。でも、最近になっていなくなったので転校したのか卒業したのかわからないけど、私はホッとしています。再登校はしないで欲しいです。
大人数に目隠しをされるような事でも、自分にとっては別にそうじゃないって事が多いです。興味なくとも自分からそれに触れなければ何もないってことならずっと続けてもらって構わないです。ただ、私が登校してきたときに意味不明な因縁をつけてきた人はどうぞこのままでお願いしますって思っています。
平和な空気ってなんでしょうね?自分の好きなことを好きな言葉で言っても、槍を刺されないことなのかもしれません。無理に共感しなくてもいいことも幸せなんですよね。ただ、それに共感してないです!ってイチイチ言わないことが自分の安全な登校を守ることになるんですよね。
哀と敗者と私だけになったとしても、それが安全な登校ならみんな幸せなんじゃないでしょうか。
冷凍のチャーハンが美味しすぎる。
ちょっと前まで土日どちらか働いていたから暇に感じるけど、だからといってまた土日働きたいとは思わないってことを考えてチャーハン食べてました。
昔ブログをやっていて、その内一部を加筆修正して他の表へ出すなどしています。
ほんの十年前ほどのものですが、今は書けない文体なんですよね。でも考えは今の自分のままの文が多くて見返すと面白いのです。
ひとりの時間が好きというか、必要なのは今も昔もやっぱり変わらないですね。ただあの頃は本当に自分の過ごしたい時間がなくて、切羽詰まっていたんですよね。そして、その切羽詰まっている感じをわかって欲しいのにわかってもらえないもどかしさを感じていた日々でありました。だけど、暗い気持ちをダークトーンのまま明るく(今から見ればテンション高めに)表現しようとしていたんですね。そんな十年前ほどの私の話を聞いてあげたいなって思います。優しくしてあげたいです。
ただ、実際あの頃の私に会ったらピリピリしてて、自分で自分に匙を投げる状態になっていたかもしれません。それほど自分の時間がなかったと言えるとは思います。
やっぱりこうやって残していくことって私にとっては必要なのかもしれないです。誰にも見えなくとも、見られなくとも、自分にしかわからない足跡を残すことで過去の自分にも現在の自分にも未来の自分にも、まとめてお礼が言える気がするのです。
ありがとーー
ひとりの時間98%が私の適正な時間配分で、残りの2%で誰かと関わればそれいいかと思う。
24時間、1週間、1か月、1年・・・・・どんなに好きな人でもずっと一緒にいたら嫌いになれるよ。
朝おきて、夜寝るまでひとりでいたい。
簡単なようで難しい。怠惰魂はしんでないけど。
ひとりで買い物にも行かないといけないけど、家にひとりというこの素晴らしい時間が捨てきれないよ。
準備がめんどくさいというのが7割だけど・・・
鉄分大事だと思ってサプリとか摂っているけど、緑茶とか玄米とかヨーグルトとかが鉄の吸収を阻むらしくて、それらも好きだから困ってる。
茶化しちゃいけないことを茶化す人だなとは最近思っていて、昔はそんなこと感じたことなかったのになと考えていましたが…
たぶん、変わったのは向こうじゃなくて、私なんだろうと思いました。私も昔はあの人が言ったような茶化しで笑っていたんだろうと思います。そう思うと昔の私ってあまり好きじゃないなーって感じます。
ネットを流し見していたら、「ドッキリ番組が昔より苦手になった」というものがあって、私もそれを常々感じていたことなので共感しました。
今より若い頃や子どもの頃はドッキリは面白く見ていたのに何でなのでしょうね?
自分なりに考えてみたのですが、視聴者としての距離感だから優越感に浸っていられたからかもしれません。視聴者もドッキリを仕掛ける側の視点で見ていますよね。だからこその優越感。高みの見物って奴ですよね。ある意味余裕があるから引っ掛かる相手の反応を楽しめるんでしょう。視聴者も引っ掛かる側でしたー!っていうのが成立しないから、絶対にこちらにも何も降りかかるらない安堵感は他人を笑う余裕に繋がるんでしょうね。
テレビほどの壮大なドッキリではないにしろ、ドッキリと同じようなことをされやすい人っているんですよね。私も家庭の中ではバカにされやすかったり貶され役だったので、テレビの視聴者として仕掛人側にいることで「今日は私はこっち側にいられる」という感覚もあったように思います。
そして、ある程度年齢を重ねて、仕掛人側もやりたくないなって変わっていったんでしょうね。自分は仕掛人をやりたくなくとも、それをやらなきゃ空気感が壊れることや、色々なしがらみがあることが透けて見えるようになってきて、仕掛人側にも断りたくても出来ないという事情を察することが出来るようになってしまいました。やりたくて楽しみたくてやっている人もいるのかもしれませんが、純粋に仕掛人を楽しめる気持ちがないんですよね。仕掛けられる側の気持ちもわかるのに仕掛人側になった途端に楽しむなんて矛盾があり過ぎて気持ち悪いかなと思うのです。
私、やっぱり変わりました。でも、こうやって変われたことは良かったと思います。茶化しちゃいけないことは茶化さないって、コレはOKでアレはダメって言語化出来るものじゃないけど、私にとっては確立されたものがあるなって感じます。ドッキリが苦手っていうのもいくつか理由があって、自分にとっては筋道立てた理由がありました。もう少しうまく書きたいけれども…
自分がどう感じるかはやっぱり大事なんだなと思います。面白くないことは面白くないって気持ち、大事にすれば自分の気持ちが見えてくるものなんでしょう。
担当替えがあった。
衣服雑貨家具食品美容品、とりあえず何でも揃う系のチェーン店。販売員をしている。
今までは洗濯・掃除用品など。
それがこれからは子供服担当へ。
入荷数コントロールがわかるようになり、棚替えも短時間でできるようになり、最近はサンプルや販促物を使って何とか自分なりにやれるように、本当に1年頑張ってきた。売場的に年末年始が晴れ舞台だ。だのにこの時期に突然追いやられてしまった。
子供服、正直ぜんぜんわからない。
子供を持つ気がないし、日本の社会人になる前の無法パラダイスの生き物が苦手。
あとあのワチャワチャした色合いが苦手。
私、アースカラーとか無彩色とか、何なら白の微妙な違いに興奮するようなイキモノなんですが。
仕方ないので1から勉強し直しである。
カフェ飯というと軽めと思いがちだけど、その通りではない。可愛い量に見えて沢山ごはんが詰まってるオムライスとか食べられない。普通の空腹状態ならウェルカムだけども。
タイミングだろうけど私が両親のことでモヤモヤしてる時期に、両親と和気あいあい投稿をしてくるのがあの人らしいなって思います。
私が勝手に見てるだけだし、そんなことを言っていたら何も投稿出来ないって思われるのも承知だけど、イラッとするのは私の正直な気持ちなので吐かせてください。
見なきゃいいというのも意見としては理解しますが、理屈じゃないんですよね。ただ、明らかな棘だけが誰かの心を刺すわけではないということを学びたいので、わざわざ刺さりに行ってるのはあります。変な奴ですが…