個人的な今年の漢字は「隠」かな?と思います。
隠れることで自分を守って自由を感じることが出来たとは思います。これからも隠居的自由を続けていきたいです。
ある小説で、「何かされたほうが許すか許さなきゃ決めなくてはならなくて、どっちにしろ、こちらにエネルギーを使わせることが解せない」といった表現がありました。
そうなんですよね。何かしら変化を起こさないといけないのは、何かをされた側なんですよね。何もされなければ使わなくていい気力や時間を使い、思考を頭の中で巡らせるのは何かされた側なんです。いつも。
仮に許すという選択をしたところで、された側の「許す」と、した側の「許される」の認識が違うことが多い。そのズレに苦しむのはいつでもどんな状況でも、された側なんですよね。
こんな感じで何かされたら損をする感覚あります。何もされないためにひっそりと隠れる。隠れることが本当の自分の自由につながると今年はこんなことばかり思っていたかもしれません。
元友人がSNSで「チョコレートは奥が深い」って言ってたけどチョコレートを毒扱いしていた時期を知っているからあきれてしまいました。
時が経てば考え方も変わるのは当然ですか、チョコレートはやっぱり奥が深いですよね。そして罪深い。
自分がそんなことを言っていなかったことになっているほど、チョコレートってやっぱり美味しいんですよね。私はずっと大好きです。
昔住んでいた地域にて。小さな白い虫を冬直前くらいの時期に見かけました。その虫の大群がある程度近づかないと視界に入らないんです。そしてやむを得ずその大群を通り過ぎることになると、目の中でその虫が息絶えているということがなんどもありました。そこまでして私に存在をアピールしたいわけでもなかろうに、最期は私の目の中で。私がその虫だとしたら虚しい最期だと思うのです。
オープニングスタッフ募集!ってなると、最初のスタートが一緒だから人間関係が出来上がってなくていいかなと錯覚しちゃうんですけど⋯
私って、そもそも最初からみんな同じという条件での馴染み方がわからない部分があるんですよね。
転校が多かったというのと、元々の性格が内向的というんでしょうか?だから馴染み方がわからないんですよね。
だからといって、もう出来上がっている輪の中に入るのも得意ってわけじゃないところがもう救えないですよ⋯
転校のせいにすると、一部の人からは「私は転校多かったけど⋯」ってなっちゃう時があるので、言いづらいですけど、転校の経験は私にとっては別にプラスではなかったです。
小学校を4回変わっていて、だいたい2年くらいで学校を変わっていたということになります。馴染んでも馴染みきれない感覚だったりとか、最初からいないというアウェー感だったりとか、最初は興味持たれるけど、だんだん飽きられて人が引いていく感じとか⋯心身共に成長する時期に学校が4回変わっていくうちに覚えていった感覚はコレです。もっと素直に何も考えずにいられたら良かったのかななんて思いますが、もう心を形成するあの大事な時期は戻ってこないので⋯
そんなこんなでオープニングスタッフの募集を見たけど、私ってオープニングスタッフじゃないほうがいいのかな?なんて考えたりしてしまいました。
昨日は本当にやる気がなくてピザを頼んでしまいました。
ピザを頼んだのがあまりにも久しぶりだったらしく、まずネットで注文が新鮮すぎたりピザの位置情報追えたりすることが面白かったです。
脳疲労っていう概念は理解できるんだけどASMRで脳疲労にも良いと言われているものに関しては首を傾げてしまう、寝落ち前提の動画だと特に。
寝落ちしちゃうくらいのリラックスによる睡眠、からの脳疲労の改善 これはわかる
でも寝落ちした後も脳みそは聞き続けているわけで。
頭のどこかでは聞くと言うタスクが睡眠中周り当てられてしまうのではなかろうか…
10年前に受けた非人道的な行為の傷口が時たまガパッと開いて
自分は怪物であるという思い込みのペーストが塗りたくられるときがある
怪物だからニンゲンと仲良くするべからず
森の奥で関わりを断ち、自分が相容れない存在であると自覚して行動せよ
写真には映るな、人の思いに残るな 化け物だから
多分呪いなんだろうなと思う
初めから自分がいないことになっている
足が冷たくなってしまう季節がやってきました。
家ではもこもこのデザイン微妙な靴下を履きたいなって思います。
意地悪な人ってやっぱり意地悪な顔してるってのはよく言われているし、若いときよりは年齢を重ねてきたほうが、顔に刻み込まれやすいって言うのもわかります。眉間にシワ寄せてたりしたらそういう表情になっていくみたいな感じです。
人生が顔に刻まれるって、意地悪な顔だけじゃなくて、他人任せにしてきた顔っていうのもあるな〜なんて以前の職場の人の表情を思い出して感じました。
自分で考えない、とりあえず1番うるさい人の言う事を聞いておくといった人の顔は表情がないっていうんでしょうかね?自分の意思のない顔だなって。
人の顔のことをとやかく言うのもなんですが美醜ではなくて、生き様が出るっていうのは間違いないんでしょうね。
うるさい人の言う事を聞いてれば、それが正しいことかどうかは関係なくて、うるさい事を避けるための行動しかしていないから、イザ自分で考えなきゃならない、覚えなきゃならないって時は何も覚えられない出来ない人だったなと。それがまさしく顔に出ていたなと。
うるさいあの人もすごい表情してたけど、それはわかりやすい顔ではありました。うるさいことを言って周りに言う事を聞かせてきたという口元をしていたなと。そのわかりやすい顔のあの人よりも考えないあの人のほうが周りは楽なのかもしれませんが、私はそうは思わないところがありました。うるさい人の意見しか聞かないから、私の意見は聞かないんですよね。判断基準がうるさいかうるさくないかだから、正しいか正しくないかが判断出来ないし、しない。
あの人の事は温和な人とか言う事も出来るのかもしれません。実際うるさい人よりはマシに見えてるからこそ、その人自身が考えないで意思がなくなって顔が緩んでいく。うるさいあの人よりも実は鬼門は意思のない顔の人で私は仕事をやめたんだっけ。
私はちゃんと意思を持っているのかな?どんな顔に映っているかはどんなに鏡を見ても自分じゃわからないんですよね。だらしないけど意思は持っていたいなと。