ふと、気付きを得た。
世の彼氏がいる女性は、“そういう”弱さを受け入れているのだと。だから恋人ができるのだと。これは私ができないことを逆算して得た気付きだった。
例えば、ある合コンで、まぁそんなに可もなく不可もなく、というくらいの男性が、自分に興味を持ったのだとする。隣に座るタイミングとなった途端に、こちらにわかるアプローチをしてくる。合コンなどという突発的な場でやってくるアプローチサイン。ここで世の女性達は、(この辺の匙加減は十人十色だとしても)別にいいか、と思えば男性を受け入れようとする体勢を少しずつとる。その後何度かのデートを重ね、数ヶ月後彼女は彼を“受け入れること”を決める。
私ができないのは、このサインからはじまるものを受け入れるということだ。なぜなら相手を分析して白黒のジャッジを下してしまうからだ。先の例で言えば、私が女性の立場ならまず真っ先に相手の特徴や事前情報からなぜ自分にアプローチをするのかを計算する。男に彼女がいない歴がどれほどあったか、歴代の彼女はどの程度か、その席の中で第一印象のみで得られる情報を計算して得られるポジションはとか。他にはその席の中での獲得成功率や私自身の女性としての価値など、様々なことが当てはまる。
こういう計算を重ねた後、目の前にいる男は「この人いいな」と単純に思ってくれている人というより、私にとってはサバンナで己が確実に捉えて肉体的得を得るために動いている、ただの獣に見えるのだ。この時点で興味を失う。つまらないと内心唾でも吐きかけそうになる。
はっきり言って自分でもここまで書いて思ったが、考えすぎだし分析しすぎだ。もう考えすぎてかえって馬鹿なのだ。そもそも目の前の対象を白黒のジャッジなどさも自分は神だとでも言いたげである。
しかし、このジャッジという点を除くと、圧倒的欠点が見つかる。私がジャッジする理由はただ一つ。怖いのだ。会って数秒で距離を急激に縮める相手が。何を隠そう私は友人ですら仲良くなったと思えるまでに年単位の時間がかかる人間だ。牛歩というかもう亀。私の縮められる距離感の歩幅が亀なみにちっっっっさい。
ここまでわかった時点で、強く思った。
私にそういうパートナーが現れるのは難しいだろうと。
例え性急に受け入れてしまっても、私の心はその薄暗闇の天井まで浮かんで、揺れて、バラバラにちぎれてしまう想像がついた。無になるのがわかる。抱かれながら、「もうなにもかもどうでもいいや」と思う自分がわかる。それは果たして幸せなのかと言われると、どちらでもない虚無に自分を叩き落とすことになるだろう。
受け入れることのできる女性は、おそらく容姿に関係なく、可憐で、愛らしく、世界で一番の美女に映るのだろうと思う。
そこまで想像して、ああ私には踏み込めない世界だと、改めて少しだけ寂しくなった。
自分の心に嘘はつけない。しかし、嘘をつきたくなるような弱さを、私は誰に受け入れてもらえばいいのだろう。
絵や音楽などの芸術が、私に優しくあるように祈るばかりだった。
おやすみなさい。