夏恒例の1キロ太りをしているのでラジオ体操多めにやってみたりしてる。とにかく暑くて動けなかったので…
最近は静かだなって思います。賑ってなくても自分にとって不快な何かはないほうがいいタイプなのでしょう。
ほとんどの人はそうだと思いますが、稀に不満ばかり言ってるのに一人になるのは嫌だというタイプがいますね。アレ、不思議なんですよね。そんなに嫌ならそれに関わる労力を最低限にすればいいのに、必要以上に絡んできて、後から文句タレタレな人。
私のことが嫌いなのに自ら突進してきて、不満ばかり言われているような…そんな人もいます。
だけどそういうタイプって、世界に私しかいなかったら仲良くしてこようとするんですよね。1人になるくらいなら嫌いなヤツとも仲良くするって気持ち悪いなって思います。じゃあ最初から文句悪口言わなきゃいいじゃない?って感じるんですけど、自分が優位に立ちたいとかあるみたいなんですよね。たくさんの人の中で1人でいる人を見下したいから、そこまで嫌いじゃなくても悪く言っておく。あ〜ここまで書いてこういう人の心理って可哀想ですね。可哀想なんて使うもんじゃないって思うけど、率直に可哀想…
1人でいることを恐れる人って文句が多いってのはやっぱり思う。その発している文句で人が寄り付かないのに気がついてない。文句じゃなくて良く気が付く自分だと思ってるから…そんなに誰かといたい輪に入りたいなら、カワイイ〜さすが〜スゴイ〜って言っておけばいいのに。1人になりたくないなら貶すより褒めることが近道ですね。そこまでしたくないなら1人を極めるしかないですよ。
今日夫は長時間手術をする。長時間なので立ち会い必要なしと言われたから普通に仕事に行く予定。
昨日わざわざちょっと遠方の病院に、主治医の説明を聞きに行ってきた。時間指定の変更を当日にされたので面倒くさかった。
手術自体の危険性は低いみたいだけど、後が色々大変らしい。
どうなるのかな。自分自身、今どんなテンションでいればいいのかよく分からなくて、逆にいつも通りだな。
さっきベランダに出たら左側が強めに雨降ってて右側はほぼ降っていなかった。貴重な瞬間だった。意外と虹よりも見たことがないかも。
他のきょうだいが嫌いというわけではなくて、私自身は一人っ子にしてもらえたほうが向いていたのかもしれないなって思うことはあります。
うちは私を含めて3人きょうだいで私が1番上。親の理想としては私が甲斐甲斐しく下の面倒を見る設定だったんだと思うけど、全然違ったからイライラさせてたんだろうなって思うことがあります。
私が何か主張すると「一人っ子みたいにワガママ」とと言われたことはありました。今思うとおかしいですよね。一人っ子みたいってなんだ?って思います。きょうだいとそんなに年が離れているわけではないので、一人っ子の体験をたっぷりしたというわけでもないんです。
私には一人っ子状態がわからないのに一人っ子みたいと言われる。一人っ子でもそうでもなくても、この場合はワガママな部分を注意すればいいだけなのに、なぜか一人っ子みたいとつくことに当時から強烈な違和感があって、相当時間が経過した現在でも残り続けてるんでしょうね。
話は変わって、下2人が喧嘩して親に怒られていたんですけど、私もなぜか怒られたことがあったんです。下2人が怒られているのを止めてあげなかったという理由です。これ、一人っ子なら絶対起こらないパターンだし、且つ、3人きょうだいじゃなければ絶対に起こらないパターン。
理不尽さって家庭外でもあるとは思うんですけど、この理不尽さって体験しなきゃならないものではなかったからまあキツいです。
こんな感じで総合的に私は一人っ子のほうが良かったんでしょう。というか、私がいなくて下の2人しかいないほうが金銭的にも環境的にも良かったんじゃないかって感じます。あまり人目につかずに生きていきたいって思うのはこういう家庭環境からも来ているのかもしれません。
コーヒー豆半額のときの土日は物凄い混んでるはずなのに、昨日はすんなり買えて嬉しかった。丁度コーヒーがなくなるタイミングでたまたまセールに出くわしたのが運が良かったと思うことにする。
一方的に自分の話したいことをバーッと話してから相手の話しを聞く。でも話すのが相手の番になって話し出しても、そこでまた自分の話したいことが出て来たらバーッと話してしまう。
昔はこういう感じじゃなかった。むしろ私のほうがバーッと話してる感じだったなと思う。いつからこんな風に変わったんだろうと思う。
何でも話せる人という位置づけだった。今現在の価値観は何でも話せる人はいない、そういう人はいちゃいけないという価値観に変わったのですが。
私の話を「愚痴ばかり」とか「くだらない」という言葉で締めるようになってからは明らかに変わっていったな。
世間一般的には愚痴は良くないとされているけど、だからこそ話せたときの解放感と話している相手に対する信頼感が心地良くて話してしまっていた。でもある時からうんざりされるようになってしまって愚痴以外の話も「くだらない」と言われるようになってからは少しずつ私も変わっていった。
10年くらいかけて今のスタイルに落ち着いた。普段の会話の先導はあちらに渡している。ちゃんと聞いているからこそところどころで私も反応するけどその反応にはほとんど応じず、また話したいことを話し出す。でも、私はちゃんと聞いている。その繰り返しで疲れてくることもあるけど、これは復讐なのかもしれない。ちゃんと聞いてもらえないという気持ちをちゃんと聞くことで果たす。よくわからないけど、そんな感じ。私は話をちゃんと聞いてるよ?ってところに持っていくことで保っている何かがある。
「無視するのが自分のスタイル」と返されたことがある。これも10年くらい前かな?聞きたくない話は無視するそうだ。私がエネルギーを使った言葉は聞きたくなければ無視してもいいのか。
だから私は「無視しないことが自分のスタイル」にすることで抗っているのかも?私は抗っているけど、今が1番平和なのかもしれない。
今日は寝坊して、午前中はずっと家の片づけとノートの整理をしていた。
最近自分の人生の終わりが見えてきたと感じる。年齢なんて上を見ても下を見てもきりがない、先日は80で新しいことに挑戦しよう、なんてタイトルの本を眼にして驚いたけれど、人生の時間が1日ずつ、1時間ずつ、1秒ずつ着実に失われてゆくのは事実だ。私はもう学生の頃のように仕事を選ぶことはできないし、子供の頃のように無邪気に夢を語ることもできない。なにか新しいことを始めるとき、これが最後の選択だ、などと仰仰しいことを考えてしまう。今風に言えば人生の最後のターン、というところだ。
こんなふうに書くとものすごいおばあさんのようだが、少なくとも自分はまだ高齢者という歳ではない。ただ、諸事情から結婚せず、一般から外れた人生を生きてきて、そのせいかあまり自分の年齢に自覚がなかった。それが最近自分はもう若くはないと思い知って、ショックというよりは取捨選択をしなければと考えているところ。
私の人生は普通から見れば決して幸せなものではないし、年を取るのは一般的にはあまり好ましいことではない。今書いたように、若い頃には当たり前に与えられていたチャンスがどんどん失われてゆくからだ。「若い頃」を病気で潰してしまった自分は特に焦りが強い。
ただ、それなりにものを見たり読んだり聞いたりしてきた積み重ねがあるせいか、同じものを見ても若いころより色々なことを考えられるようになった。
そう考えると、意識的に知識や経験を重ねてゆけば歳を取るのは結構楽しいのかもしれない。できれば20年後にも同じ言葉を言えるようでいたい。
お土産って基本的に難しいよね。無難なものってありふれてるからこそ難しいって思う。基本的にもらったら有り難く頂くのがいいと思うけど、お土産充実してそうな観光地で“◯◯に行ってきましたクッキー”ならちょっとガッカリするのも事実です。
振り返ってみて、相手に変なものや仰々しいものを贈ってしまったときって、その相手との関係性がおかしくなっているときなのかもなと。
その時は最適だと思っていたものか振り替えるとアレ?ってなるって相手とのことを考えすぎたり、思いやりというよりは文句を言われないように怪訝な表情されないようにとかそんな理由だ。
だから妙なものを贈る。精神的に参って退職した会社に挨拶として買ったのは瓶詰めの重たいゼリー。今思えば瓶とか重いし邪魔だったと思うけど、あの時は普通のものじゃケチつけられると怯えてたと思う。実際、そういう雰囲気だったから精神的に参ってしまったのは事実なので…たぶん、こんな瓶の面倒なもの…って最後の最後まで陰口は言われてたかも?
自然派の食事が好きになった友達の家に招かれるときも、いつもない頭を絞って手土産を持参していたけど、いつも一瞬だけ曇った顔をしていたのは見逃さなかった。この場合、決して変なものではなかったとは思うけど、コレならどうだ?こういうのならどうだ?みたいに感覚が親しい友達に会いにいくレベルをこえてたような気がする。某コーヒーチェーンの飲み物セットやデパートで買ったせんべいとか色々頑張ったけど、その頑張りは無意味だったな。
相手のことを考えて何かをするって大事だけど、それをすることですり減ってしまうような感覚が出てきたらマズイんだと思う。
ちょっと前に辞めた仕事にも挨拶のお菓子買っていったけど、我ながら無難だけど小スペースだけどそれなりに美味しそうなものを買ったなと。感想はわからないけど。ここも色々嫌になって辞めたけど、精神的に参る前に辞めたから仰々しいものを買わないで済んだんだと思う。
すり減る前に離れないと変な置土産しちゃうから気を付けないといけない。